布団の中で
お久しぶりです。春休みです。
引きこもっております。
ぼちぼち書いていきます。
この前ののバビロニア面白かった、見ました?
私が7章が1番好きな理由は、ウルクの民達が主人公達の目を通して具体的に描写されているからなんですよ。
元々自分が「生活」を眺めるのが好きなんですけど、気候や習慣によって工夫をしたり、ものを作ったり建てたりしているのがなんか嬉しいんですよ。私の知らないところでも、人は生きているんだなあ、て。
人は生きるために何かを為し、それが佇まいへダイレクトに現れている。生活って、ひとつの文化だと思うんですね。
話を戻すと、彼らは話を進めるためのただのモブで終わっていなくて、彼らにも意思があって、それをしっかり持った上で生きている。
自分たちの運命がもう分かっていたとしても、生きようとしている。
彼らが戦うと決めた理由って、ずっとなんなんだろうと思っていたんですよ。
王様がいたというのも大きな一因だと思うんですけど、彼らは決して特殊な種族ではないと考えています。「人」なんですよ。あくまでも。
ただ彼らは最後まで、「人間らしく生きたい」と思って、その結果が「神と決別するために戦う」という大きなことになった。だからだと考えています。
わあ、凄いなあって、思いました。
自分に出来ることを理解し、皆で1歩ずつ進んでいく。
それがとても人間らしいと思いました。
人間らしく生きるって実はとっても難しいことで、自分の中で人生の最大のテーマだと思ってるんです。
そして、人間らしく生きている人は美しく逞しい。
私はそんな人間になりたいと思っています。
だから、自分はどう人間らしく生きていこうか、ということを考え始めていました。
そうすると、自分に出来ることはなんなのかという問題にぶち当たるんですよ。
近代までは、郷里という狭く密接な地域が人間の役割を作り出してくれたと思うんですけど、その関係性も薄れてしまったり、全く知らない人が全く知らない場所で代わりに役割を担うことが出来たりして、役割を果たすのに空間的・物理的な障害がかなり減りました。
自分が居なくてもこの世界は回っていくし、自分が役に立てる事がどんどん少なくなっていると思うんです。
己の存在はあるけど、ずっと地面がなくて、どこかわからない所を、何も出来ないまま、漂っていて。
「いてもいなくてもいい」ということを前提に生きている気がするんです。
なぜそう思うのか。
人間が相対出来る世界がどんどん広がっているからだと思いました。
昔なら全く知ることのなかった事実や文化、人間の考え方、そして役割。それに触れる機会も、手に負えないほど多くなっているんです。
だから、自分に無力感を感じたりするのは当たり前のことなんですよ。自分の出来ることは絶対的に限られているのに、選択肢ばかりが増えてしまって、そのせいで混乱してしまう。
それが自分を嫌い続ける原因になるんだと気付きました。
基本的に私はワガママで臆病者なので、目に見えるものを全部なんとかしたいと思ってしまうんです。
自分が苦手なことでさえも、他人に舐められたくないから、馬鹿にされたくないからって取り繕うとするんです。
だから、私の作るものは全部中途半端だし、自分は満足していないわ虚栄心ばかりで、なんじゃこりゃですよ。
だから自分を嫌いになる。いてもいなくてもいいと思う。はやく直したいです。
ここ最近そればっかりだったので、今回考えてみてよかったと思います。
だからて何ができるかどうかはわかんなかったり、覚悟が無いんですけどね…へへ…(笑うな)
出来ることを理解して、1歩ずつ進んでいきたいです。
結局自分のことしか考えられていないけれど、いつかみんなみたいに、誰かのことも自分みたいに考えられたらいいなあって思います。
読んでくれてありがとうございます。
またいつか。